逸脱せよ!


by amnesiac7
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肉体には適切な栄養を、思考力には正当な評価を

このごろボクは、ひとつの思考の迷路のなかを彷徨っていた
大事な物事について考えないひと、考えたくないひとというのは、いったいどういった精神構造で
そうなってしまっているのか、と
しかもそれが、社会レヴェルでの気運であると、たいへんショックな宣告を受けてしまったため、
もうなにやら世の中すべてに暗澹たる気分を持ってしまうような気分だった
しかし、そこには以外な盲点があった

ボクは「考えないひと」について考えるとき、「考えないひと」についてだけに強くとらわれていた
そして、それらの理解しがたい構造とヤル気のなさに、こちらまですっかりと毒される気分だった
だが、このアプローチの仕方は根本的にまちがっていたのかもしれない

「考えるひと」、「考えないひと」を考えるとき、「考えないひと」について深く考えるよりも、
「考えるひと」というのが、なぜ考えるようになったのか、ということについてを考えるほうが
有意義なのではないだろうか、とひらめく
もうここまで来ると答えを導きだすための思索はカンタンになった
「考えるひと」という逆説的存在の考察を持って、「考えないひと」にアプローチする
これならば、ひとつのある程度は納得のいく一説に辿り着けそうである

「脳」というのは、結局つまるところ、「快感」を栄養として成長していくものである
一見、息のつまるような勉強や研究でも、それに対する「報い」、「評価」を受けることによって、
それらは一気に「報われた気分」となり、さらなる勉学へと加速する栄養素となる
思考をやめようとしないひとたちいうのは、こういった自分が支払った労力に対し、「正当な評価」を
受けた経験が少なからずあるひとたちなのではないだろうか
(もちろん、正当な評価を受けれていないひとのなかにも、「なにくそ、いつか見てろよ」という自家製の反骨精神で、日々、勉学にいそしんでいる素晴らしいひとの存在も認めないわけにはいかないだろう)

かんがみて「考えない」、「考えたくない」というひとたちとは、いったいどういったひとたちであるのか
逆説的論法を用いれば、あまりシンプルな答えで疑念も残るが、「認められた経験があまりないひと」
たちなのではないだろうか、と
こどものころから、ひとから正当な評価を受けれずに、考えることがだんだんとバカらしくなってしまった、あるいは思春期の折にでも、完全に公正から逸脱した論理で強く自分を否定された経験のあるひと、といったところなのではないだろうか
そういった経験は、思考を止めてしまうのに十分に値する要因となりえてしまう
なにを言っても否定され、なにを言っても評価されない、そうなってくると、もう「なにも考えない」
という選択を、自己防衛本能からも自然、半ば強制的にチョイスさせられてしまうだろう
ここまで想像してしまうと、現代社会の持つ構造上の病巣そのものに触れてしまった気になってきて、今度は怒りとは逆に、なんだか悲しい気分になってきた

すべてはあくまでもボクの想像、というか妄想の域のお話ではあるが、
ワケもなく、なにかを強く否定したり、なにかから必死に逃れようとする行動の心理は、
そういった経験の積み重ねから得てしまったフィード・バック的行動の一端なのかもしれない
逆方向からアプローチしてみたら、こんなひとつの答えがかえってきた
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by AMNESIac7 | 2005-09-14 18:11 | 断想