逸脱せよ!


by amnesiac7
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知を求めること、理解者との相関

知。想像力、創造力。
高次な知を求めるとき、さまざまな知識の連結がカギとなる。
一方向に偏らない、多面的知識、経験則からによる考察と構築。
知識は多ければ多いほど良い。統合しうるだけの能力があるのならば。
電気信号が走る経路の拡大こそが、叡智というものの本質ともいえる。

人間は(自らの)理解者を求める。
ひとが他人を理解するとき、それはその人間が「理解しうる範囲」までの理解でしかない。
自らに高次な知の獲得を課している者は、半ば理解者の縮小の覚悟が必須となる。
一般の知からの逸脱は、必然的な孤独を生み出すのである。
それがイヤならば、知者の集まるところに行かなければならないが、それもやはり社会的には小さな
コミュニティであり、また自らを知者と認識する以上、愚的情念に悩まされることとなる。

個人的幸福を考えるときに生まれる知のリミット。
だが、このリミット設定は往々にして低い。なぜか?
ひとは皆、他人を愚かであると考えているためだ。
加減、按配の難儀さは何によって生まれるのか?
言葉の拙さによってである。
ひとは、その個体が持つ知よりも、はるかに低い言語能力しか持ちえていない。
自らの感情、考えを正確に伝える能力と、相手のそれを理解する能力の未熟さに起因する。
「伝わらない」と感じていながらも、これを磨こうとしないのはなぜか?

他人と話すとき、他人を見ていない。
自分の中のものだけで一杯になってしまっている。
「理解」という姿勢自体が、最初から備わっていないためだ。

知の拡大、理解の上昇のカギは「滅私」にあるのだろうか?
個人主義社会から、さらにバラバラな状態にある現在で、知は果たして?
やはり知は孤独のなかにあるのだろうか?

ボクは他人に(ひとそのものには)興味がない。けど「読み取る」ことには、いつだって興味津々だ。
だけど一般には、興味があるけど、読み取る気はない、という人間がほとんどな気がする。
そもそもそれはなぜなのか? やはりボクがおかしいだけなのだろうか?

ボクは、何ひとつ突出した知を持ちえているという実感はない。
けど、この孤立感はいったいどこからくるのか?
いくら積極的に、社交的に振る舞い、たくさんのひとから、陽気な人間と思われても、ボクの中の闇
(病み)は深くなる一方だ。
ボクが冗談しか言わないのは、冗談しか伝わらない環境にいるからだ。
方向が間違っているのか - 否、間違ってはいない。何もかもが間違いなのだから。
世界に正解は、なにひとつない。全てが正解だし、間違っているのだから。

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正直、最近、疲れきっている。
なぜボクは、ここまで闇を増幅させ続けているのか、と。
なにかを増やすのではなく、捨てなければいけない時期に来ているのだろうか?
でも、ボクが自分のなかの何かを切り捨てるということは、「自分殺し」にほかならない。
死にながら生きるなんて、考えるだけでうんざりだ。ああ、困った。袋小路だ。
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by AMNESIac7 | 2010-05-11 20:12 | 雑記・雑感